「スポーツの力で、挑む姿を美しく」

この度、一般社団法人SSKT所属の小林選手(19)が、青森県で開催される「全国障害者スポーツ大会」へ兵庫県代表として2度目の選出を果たしました。

また、私・桐村裕一も兵庫県より役員としての帯同を任され、共に決戦の地へ向かいます。

本大会は、オリンピックに対するパラリンピックと同様、国内の障がい者スポーツにおける最高峰の総合競技大会です。

開会式と閉会式には皇族方やスポーツ庁長官をはじめとするご臨席を賜り、その模様はNHKでも全国生中継されるほか、多くのメディアで大きく取り上げられるなど、極めて高い格式と華やかさを誇ります。

当初より「社会参加の促進」という温かい理念を持つ大会であるため、一生に一度しか出場権を得られない地域もある中、小林君は県大会で圧巻の成績を収め、実力で二度目の兵庫県代表の座を勝ち取りました。

テレビの画面越しにも伝わる高貴な気品と熱気。そんな最高峰のステージでアスリートとして輝く小林君の挑戦。

出場選手の中には、未来のパラリンピアンとして世界を見据えるトップアスリートも数多く集います。

気品ある雰囲気の中、熱き情熱が交錯するこの特別な舞台で、前回の悔しさを糧に「雪辱を果たしたい」と強い想いを胸に抱く小林選手。

日本中が注目する気品ある雰囲気の中、兵庫県代表小林選手が存分に力を発揮できるよう、兵庫県代表の役員として全力で伴走してまいります。

議会はもっと「クリエイティブ」になれる。

滋賀県甲賀市と愛知県岩倉市に見る、住民を本気にする5つの仕掛け

「政治は自分たちの生活とは遠いもの」「議会が何をしているのかさっぱりわからない」。

そんな風に感じたことはありませんか? 多くの人にとって、市役所の議場は「近くて遠い場所」かもしれません。

しかし今、その距離を劇的に縮めようとする、クリエイティブな挑戦を始めている自治体があります。

2026年7月、兵庫県丹波篠山市議会の広報広聴常任委員会が視察に訪れた、滋賀県甲賀市と愛知県岩倉市の取り組みです。

人口約4万7,900人のコンパクトな愛知県岩倉市と、480平方キロメートルを超える広大な面積を持つ滋賀県甲賀市。規模も環境も異なる両市に共通していたのは、住民が来るのを待つのではなく、議会が自ら住民に「会いに行く」という能動的な姿勢でした。

私たちの議会に対する先入観をアップデートする、5つの驚きの仕掛けをご紹介します。

くじ引きで選ばれる「議会サポーター」という特別感(岩倉市)

愛知県岩倉市議会が平成30年から導入している「議会サポーター制度」は、無関心層を動かすための緻密な戦略に満ちています。特筆すべきは、その選定方法。自ら応募する「公募」ではなく、住民基本台帳から「無作為抽出」、つまり「くじ引き」で選ばれた市民に案内を送るスタイルです。

  • 「招待」が生む当事者意識:18歳から85歳までの市民の中から、人口比に基づいた5つの区分で500名を抽出。あえて若年層(10代〜30代)の抽出数を増やすことで、政治の高齢化に抗っています。
  • 3,000円のQUOカードという「誠実さ」:ボランティア任せにせず、謝礼を用意することで、活動への責任感と参加へのハードル低下を両立させています。
  • 「サポーター」という名称の魔法:単なる「監視役(モニター)」ではなく、共に歩み、議会を応援する存在であってほしいという願いが込められています。

「市議会を支援・応援してほしいという観点から『サポーター』という名称が採用された」

自分から手を挙げるのはハードルが高くても、「500人の中に選ばれました」と議会から直接メッセージが届けば、「一度行ってみようか」という「特別感」が生まれます。これが、これまで議会に縁のなかった層を呼び込む鍵となっています。

ショッピングモールで「3分間」の民意抽出(甲賀市)

滋賀県甲賀市議会が実践したのは、究極のアウトリーチ(出向き)型調査です。彼らが向かったのは議場ではなく、若者や現役世代が集まる大型商業施設「アヤハプラザ」でした。

そこでは、お堅いヒアリングではなく「3分アンケート」を実施。わずか1.5時間で125名もの市民から意見を集めることに成功しました。「議会が市民を待つ」という従来の姿勢を捨て、議員自らがエスカレーター横や広場に立つことで、普段は声が届かない世代の「生の声」に触れたのです。

ここで集まった「夜間小児科の充実」や「公共交通の改善」といった切実な意見は、単なるメモで終わりません。実際に常任委員会の調査や一般質問の根拠として活用され、政策へとつながる好循環を生み出しています。

中学生でも読みたくなる「推せる」議会だより(甲賀市)

「議会だより」といえば、難しい用語と議員の顔写真が並ぶだけのもの……というイメージを、甲賀市は鮮やかに塗り替えました。驚くべきは、企画から業者との調整まで、すべて議員自身が「手作り」している点です。

  • デザインの「鉄則」を徹底:中学生や小学生でも読みやすいよう、「写真は傾けない」「文字を詰め込みすぎない」といった独自のルールを運用しています。
  • 表紙は市民との共作:表紙写真を一般公募し、市民参加の入り口を作っています。
  • 人間味あふれるプロフィール:議員紹介ページでは、**「好きな歌」**を掲載するなど、自由な形式で個性を表現。

「情報を正確に載せる」だけの広報から、「まずは手に取ってもらう」ための広報へ。議員を「遠い政治家」ではなく「一人の人間」として見せる工夫が、情報の到達率を劇的に高めています。

「教室に議員がいる」主権者教育のリアリティ(岩倉市)

岩倉市議会議長が推進する小中学校での「主権者教育」は、単なる講義ではありません。議員が各クラスのディスカッションの中に一人の参加者として混ざり、生徒たちのリアルな意見に耳を傾けるスタイルです。

この活動の最大の価値は、子供たちに「自分の声が大人(社会)を動かした」という成功体験を与えることにあります。

  • 政治的無関心の防止:中学生の意見がきっかけで、実際に議員が一般質問を行った事例もあります。「言っても無駄」という諦めを、「言えば変わる」という実感に変える、極めて実戦的な教育です。
  • 「大人の本気」を見せる:議員が教室に足を運ぶこと自体が、子供たちにとっての「民主主義のリアリティ」となっています。

帽子、乳幼児、タブレット——「傍聴の壁」を壊すアップデート

両市は、議会の「当たり前」を市民目線で破壊し、傍聴のハードルを下げる試みを続けています。

  • 「立ち寄りやすさ」の追求(岩倉市):受付での記名を不要にし、本会議中の写真・動画撮影も許可。これにより、通りすがりの市民がふらっと覗き込める心理的余裕を生んでいます。
  • 対立から「対話」へ:サポーターの提案を受け、岩倉市では「職員が座って答弁する形式」を採用。威圧感を排除し、建設的な議論を行う場への転換を図っています。
  • 時代に合わせた規則見直し(甲賀市):「帽子を脱ぐ」といった時代に合わない規則や、乳幼児連れの傍聴制限を撤廃するための議論が始まっています。
  • デジタル化の落とし穴への気づき:議会のタブレット導入により、傍聴席から「何が審議されているか文字が見えない」という新たな課題(デジタル化による阻害)にも着目し、改善を模索しています。

あなたの街の議会に、何を求めますか?

今回紹介した取り組みは、決して「完成された成功物語」ではありません。実際には、両市とも「アンケート回収数の減少」や「SNSの活用不足」といった現在進行形の悩みや失敗を抱えながら、泥臭く試行錯誤を続けています。

しかし、その「変化しようとする意志」こそが、議会をクリエイティブにし、住民を本気にさせるのではないでしょうか。

もし、あなたのもとに「議会サポーター」の招待状が届いたら。あるいは、ショッピングモールでアンケート板を持った議員に出会ったら。

「もしあなたが議会サポーターに選ばれたら、最初にどんな声を届けたいですか?」

議会を変えるのは、特別な誰かではなく、あなたの一言から始まる「自分たちの物語」なのかもしれません。

「もっと幅広く」の声をいただくことがあります

市議会議員として活動していると、

もっといろいろな分野を勉強した方がいい

福祉や教育だけでなく、幅広く取り組むべきではないか

というご意見をいただくことがあります。

その考え方もよく分かります。

市議会議員は市全体を見る立場です。

福祉や教育だけでなく、産業、防災、環境、まちづくりなど、

あらゆる分野に目を向ける責任があります。それは私自身も常に意識しています。

ただ、私は一方で「専門性を持つこと」も議員には必要だと考えています。

私はこれまで、子どもや障がいのある方、そのご家族と現場で向き合いながら仕事をしてきました。

だからこそ、その経験を市政に生かせるのが私の役割だと思っています。

得意分野を広く浅く語るのではなく、現場で見えている課題を深く掘り下げ、より正確に、より具体的な政策へつなげていく。

そのことが、市民の皆さんへの責任ではないでしょうか。

私が取り組んでいる福祉は、利益を追い求める世界ではありません。

事業を大きくすることが目的でもありません。

今でも現場は手いっぱいで、これ以上受け入れを増やすことが難しい状況です。

だからこそ、私が考えたいのは「これからの地域福祉をどうつくっていくか」ということです。

子どもたちが安心して育ち、高齢になっても、障がいがあっても、自分らしく暮らし続けられる地域をどう実現するのか。

そのために行政は何をすべきなのか。

制度だけではなく、人と人とのつながりをどう育てていくのか。

そうしたことを深く考え、政策として形にしていくことが、私の役割だと考えています。

もちろん、市政全体を学び続ける姿勢はこれからも変わりません。

しかし、「何でも少しずつできる議員」ではなく、「この分野なら桐村に聞けば何とかなる」と思っていただける議員でありたい。

その専門性が、結果として市全体の政策の質を高めることにつながると信じています。

そして私は、「次の任期でやろう」とは考えていません。

今期の4年間でできることは、今期で形にする。

その覚悟を持って、一つひとつの課題に向き合っています。

広く市全体を見ながらも、自分だからこそできることを誰よりも深く追求する。

それが、私が目指す議員の姿です。

いろんな思いで進んで参ります。今後もご意見いただけたらと思っております。

よろしくお願いいたします。

地域再生の常識を覆す

岩手・秋田の過疎地から学ぶ「未来のまちづくり」4つの衝撃的ヒント

1. 導入:静かに進む「地方の消滅」に、どう立ち向かうか

日本の地方は今、生存をかけた岐路に立たされています。加速する高齢化、人口減少に伴う公共交通の廃止、そして地域経済から静かに、しかし確実に流出し続けるエネルギー代金。追い打ちをかけるように巨大災害の脅威が影を落とす中、従来の「行政がすべてを解決する」というモデルは、もはや維持不可能な限界を迎えています。

しかし、この絶望的とも言える状況を、テクノロジーと知恵で「変革の種」に変えている地域があります。秋田県仙北市と岩手県遠野市です。そこで行われているのは、単なる延命措置ではありません。地域の「当たり前」を根底から書き換える、挑戦的なイノベーションです。電波の届かない雪深い山奥や、資金力のない民間企業の奮闘から見えてきた、未来を拓く4つのヒントを紐解きます。

2. 「病院が家に来る」:医療MaaSが変えた、通院の概念

秋田県仙北市では、過疎地の医療を巡るパラダイムシフトが起きています。「患者が病院へ行く」のではなく、「医療が患者の元へ行く」医療MaaS(モバイルクリニック)の導入です。

このプロジェクトを牽引するのは、西木診療所の市川真一医師。地域唯一の常勤医として、雪道をも厭わず訪問診療を続けてきた市川医師の想いが、最新技術と融合しました。専用車両には心電図、エコー、電子聴診器が搭載され、看護師が患者の自宅前まで向かい、医師は診療所から遠隔で診察する「P with N(医師+看護師)」スタイルを確立しています。

しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。山間部特有の「通信の空白地帯」という壁に対し、衛星通信「スターリンク」を導入して電波状況を改善。さらに、冬季の積雪や熊の出没といった過酷な環境下での運用も、現場の創意工夫で乗り越えてきました。

この取り組みの結果、訪問事業全体の利用者は1年で31人から約170人へと急増し、そのうち約80人がこの医療MaaSによって支えられています。

「体が不自由な患者から2本指で打たれた感謝のFAXに、地域医療の原点を見た」

市川医師が語るこのエピソードは、テクノロジーが単なる効率化の手段ではなく、患者の「通院を諦めない」という尊厳を守るためのツールであることを示しています。

3. 「後方支援」という戦略:震災から学んだ遠野市の「受援力」

岩手県遠野市は、東日本大震災の教訓から、自らを「被災地を支える内陸拠点(後方支援拠点)」として再定義しました。「助けられる側」という受動的なイメージを捨て、外部の支援をいかに効率的に受け入れ、前線へ送るかという「受援力」を磨き上げたのです。

遠野市の戦略は極めて具体的です。144もの団体と協定を結び、平時から「顔の見える関係」を構築。特筆すべきは、物資の滞留を防ぐ「バッファー(緩衝地帯)」としての機能です。震災時には全国から届く膨大な物資を、学生やボランティアが分別・整理し、必要な場所へ送り出すセンターとして機能しました。

こうした連携を支えるのは、技術的な裏付けに基づいたインフラ整備です。遠野市は、新庁舎整備において以下の要件を不可欠としています。

  • 強固なWi-Fi環境: 災害時の通信途絶を防ぎ、情報共有を支える生命線。
  • 多機関連携のための小会議室: 自衛隊、警察、消防といった外部支援機関が、到着直後から指揮・調整を行える個別の拠点を確保。
  • 物流・備蓄倉庫: 外部からの物資や機材を混乱なく管理・保管するスペース。

多機関の情報を集約し、人的・物的な「目詰まり」を防ぐコーディネート能力こそが、災害レジリエンスの本質なのです。

4. 「脱・お役所主導」:地域新電力『イガッタ』が目指す経済の地産地消

遠野市が挑むもう一つの改革が、地域新電力会社「株式会社イガッタ」による経済の再生です。ここでは、市が主導することで市民に生じる「やらされ感」を排除するため、あえて民間主体の設立という道を選びました。

背景にあるのは、年間約5億円もの電気代が市外へと流出している「地域経済の穴」です。この穴を塞ぎ、資金を地域内で循環させる仕組みを目指していますが、そのスタートは決して潤沢なものではありません。現在の資本金は40万円。電力小売事業の登録に不可欠な1,000万円という壁を突破するため、今まさに民間主導の苦しい、しかし希望ある挑戦が続いています。

このプロジェクトの独自性は、エネルギーを最新のライフスタイルと結びつけている点です。

  • ノングリッド型キャンプ: 電柱から電気を引かない独立電源を活用し、最新のGX(グリーントランスフォーメーション)を体験できる観光資源を創出。
  • 官民共創ネットワーク: 発電利益を地域内の新規事業に還元し、市民の「やりたい」を後押しする。

「自分たちの街のエネルギーは自分たちで稼ぐ」。この切実な当事者意識が、行政の支援を受けながらも民間のスピード感でプロジェクトを動かしています。

5. 「社会的処方」:孤立を防ぐのは薬ではなく「つながり」

仙北市の医療MaaSと、遠野市の共創ネットワーク。一見異なるこの二つの取り組みには、一つの共通する哲学が流れています。それが「社会的処方」です。

免許返納後の高齢者が陥る「移動困難→受診中断→重症化」という負のループ。しかし、最も恐ろしいのは病そのものではなく、外出機会の喪失による「社会的孤立」です。医療MaaSの現場では、看護師との何気ない談話が、高齢者にとっての大きな生きがいとなっています。

一方で遠野市のワークショップは、健康な市民にとっても「予防的な社会的処方」として機能しています。地域の課題に主体的に関わり、役割を持つことで、将来的な孤立を防ぐ。テクノロジー(MaaS、DX、再エネ)は、効率化のためではなく、人間が人間らしくいられるための「つながり」を取り戻すための装置に他なりません。

6. 結論:私たちのまちは、まだ面白くなれる

秋田県仙北市と岩手県遠野市の事例が教えてくれるのは、人口減少や物価高騰という逆風の中でも、視点を変えれば「新しい価値」を生み出せるという事実です。

「病院が家に来る」ことが当たり前になり、市民がエネルギーのオーナーとなり、災害時には近隣自治体を支える誇りを持つ。こうしたモデルは、決して特定の地域だけの特権ではありません。テクノロジーを「人の温もり」のために使い、行政と民間が対等な立場で課題に向き合うとき、どの地域でも変革は可能です。

これまでの常識が通用しない時代は、言い換えれば、新しい常識を自分たちの手で作れる時代でもあります。

あなたの住む街の「当たり前」を、どう変えられるでしょうか? 

その問いの先に、私たちが本当に住みたかった未来の姿があるはずです。

学校に行けない「その前」に何ができるか?

丹波篠山市の議論から見えた不登校・いじめ対策の最前線

朝、食卓でトーストを前にしたまま、視線を落として動かない。

昨日まで通えていたはずの学校を前に、子どもが発する「行きたくない」という言葉。

それは、親や教師にとっては唐突な宣告に聞こえますが、実は子ども自身の心の中では、目に見えない無数の傷が限界に達した結果、ようやくこぼれ落ちた「最後の一滴」なのかもしれません。

不登校について語るとき、私たちはどうしても「いかにして学校へ戻すか」という後追いの議論に終始しがちです。しかし、教育の枠組みを鮮やかに飛び越え、福祉や労働、そして人間の尊厳にまで踏み込んだ議論が必要になります。

社会イノベーションの視点から、私たちが今、学校の門が閉じる「その前」に何を見落としているのか、4つの衝撃的かつ重要な視点を整理します。


1. 「第0段階」の支援 家庭内孤立を防ぐという新発想

不登校支援のスタート地点をどこに置くか。丹波篠山市の議論で提示されたのは、「第0段階支援」という革新的な概念です。

これは、学校や支援機関に繋がる以前の、誰にも相談できず家の中で立ち尽くす「家庭内孤立」の状態を指します。支援のゴールを単なる「登校」に設定するのではなく、「学校復帰だけを目的とするのではなく、生徒と家庭を社会から孤立させないための支援」(議事録より)に置くというパラダイムシフトが、市の基本方針として明確に語られました。

保健・福祉・教育が一体となり、外に出られない家庭にこちらから手を差し伸べる「伴走型支援」。教育の目的を「登校」ではなく「社会的自立」に置くことで、学校の門の外にいる子どもの存在を、地域のつながりの中に再定義しようとしています。

2. 「開放性の逆説」 良かれと思った授業が、あの子を追い詰めていないか?

現代の教育現場で推奨される「主体的な学び」や「ロールプレイング」を伴うアクティブ・ラーニング。しかし、ここに意外な落とし穴があることが大阪大学の大竹文雄教授らの研究(エビデンスに基づく不登校対策)を引用して指摘されました。それが「開放性の逆説」です。

一見、自由で活気ある学びの場が、内向的な生徒や発達特性を持つ生徒にとっては、逃げ場のない強い苦痛を感じる要因になっているという事実です。特に、「発達特性や感覚過敏を持つ子どもは、集団の雰囲気などが大きな苦痛になる場合がある」という視点は重要です。

コロナ禍を経て、学校行事や部活動が縮小された結果、学校が「勉強(成績)という単一の物差しだけで評価される場所」へと変質してしまったことも、この苦しみに拍車をかけています。多様な学び方を認めるとは、「全員が同じ輪の中で輝く」ことを強いるのではなく、一人ひとりの「安心できる距離感」を尊重することから始まるのではないでしょうか。

3. 保護者の「深夜12時の孤独」 教育問題は、福祉と労働の課題である

不登校は子どもだけの問題ではありません。その背後には、深刻な「家族の疲弊」があります。

「水無月会議」の議論では、不登校が親の「離職や転職」を招き、家計や精神状態を限界まで追い詰める実情が浮き彫りになりました。特にひとり親家庭ではその負担は耐えがたく、「保護者は精神的に追い詰められやすく、仕事との両立が困難」な現実は、もはや教育委員会の範疇を超えた福祉・労働行政の課題です。

例えば、市の教育支援センター「ゆめハウス」の利用時間は9:00から15:00に限られています。この時間はフルタイムで働く親にとっては送迎がほぼ不可能な設定であり、頼れる親族がいない家庭には支援が届かない「アクセス格差」を生んでいます。

夜間にしか本音を吐露できない保護者が抱える「深夜12時の孤独」。これを救うには、教育を単独の島として放置せず、24時間体制の相談窓口や就労継続支援といった、厚みのある社会保障の視点が不可欠です。

4. いじめを「氷山の一角」と認める勇気 数字の増加は、救いの手の増加

「いじめ認知件数の増加」を、学校の質の低下と捉えるべきではありません。丹波篠山市の姿勢はその逆を行きます。

アンケートで見える数字はあくまで「氷山の一角」であり、小さな違和感や軽微な事案を大人が正しく認識することこそが、深刻化を防ぐ唯一の道であるとしています。つまり、「いじめ件数の増加は、軽微な段階からの適切な関与の結果」であるというポジティブな評価です。

「いじめゼロ」という非現実的なスローガンで問題を隠蔽するのではなく、「いじめを隠さない文化」を作ること。その基盤となるのが「子どもの権利条約」の学びです。単なる知識としてではなく、「自分の安心が大切であるのと同時に、他者の安心も奪ってはいけない」という相互理解のツールとしてこれを活用し、対等な関係性を育む文化。数字の増加を「救いの手が届いた証」と捉える勇気こそが、教育現場に求められています。


結び 誰も取り残さないために、私たちが問うべきこと

丹波篠山市では、令和7年4月に開設された「子ども家庭センター」を中核に、スタディサプリによるICT学習支援など、支援のインフラ整備が着々と進んでいます。しかし、一方で市全体でわずか1名という圧倒的なスクールソーシャルワーカー(SSW)の不足や、前述した送迎支援の欠如といった、構造的な課題も依然として立ちはだかっています。

子どもが学校に行けないのは、その子のせいでも親のせいでもありません。それは、社会がまだ「学校以外の場所」に、多様な安心の形を設計しきれていないからかもしれません。

ICT教材や専門センターという「箱」や「仕組み」を整えることはもちろん大切です。

しかし、それ以上に重要なのは、私たちのコミュニティが、学校の門の外にいる子どもたちに、どれだけ温かい「第0段階」の居場所を用意できるかではないでしょうか。

あなたは今日、隣にいる「あの子」が食卓や教室で発している、静かなサインに気づけているでしょうか?

「ゲームスタート!」小学6年生と挑んだ、100万円の使い道ミッション。最高のご褒美をいただきました!

先日、地元の小学校6年生の教壇に立ち、少し変わった「主権者教育(政治・議会の授業)」を行ってまいりました!

政治や議会というと、「なんだか難しそう…」「自分たちには関係ないかな」と思われがちですよね。 どうすれば子どもたちが自分事として、楽しみながらまちづくりを学べるか?

そこで今回は、子どもたちに馴染みのあるゲーム風のシミュレーションを取り入れ、「もしも、担任の先生(市長)から、100万円で激しい巨大ウォータースライダーを作るという衝撃の提案(予算案)があったら?」というクエストをみんなに発注してみました。

◆ 子どもたちが「議員」になって、先生(市長)にツッコミを入れる!

授業では、子どもたち自身が「議員」やそれぞれの「会派」のキャラクターになりきり、先生演じる市長の提案に対して、多様な視点でツッコミ(議論)を入れます。

「青藍会」「公明党」「日本維新の会」、そして私が日頃から所属している「福祉と教育」の視点。

「ただ元気な人が楽しめる施設でいいのかな?」 「車椅子のままでも、みんなが一緒に遊べるやさしいユニバーサルデザインの工夫はあるの?」

そんな鋭い視点や意見が子どもたちから次々と飛び出し、教室は大盛り上がり! 担任の先生(市長)にみんなで本気で意見をぶつける姿は、面白おかしくもありつつ、大人顔負けの素晴らしい議論の連続でした。授業後には、担任の先生からも「子どもたちのあんなに生き生きした姿や、深い視点が見られて本当に嬉しかった」と、大変喜んでいただくことができました。

◆ 数日後、届いた「最高の宝物」

そんな最高に楽しかった授業から数日後。

私の手元に、なんとも素敵な、ずっしりと温かい冊子が届いたのです。

表紙には大きく「桐村裕一様 ありがとうございました 6年生一同」の文字。

ページをめくると、子どもたち一人ひとりから、あの日の授業の感想や、温かいお礼のメッセージがびっしりと詰まっていました。

「政治のイメージが変わった!」「自分たちの意見で未来を変えられるかもしれないと思った」

子どもたちの素直な言葉の一つひとつが、胸に深く突き刺さりました。昼夜を問わず現場を駆け回る私にとって、これ以上ないエネルギーであり、最高の「ご褒美」です。みんな、本当にありがとう!

◆ 未来のまちをつくる、小さな手の中に

私たちが議場で議論している一つひとつの予算や政策は、すべて、この子どもたちの未来へと繋がっています。

声なき声に寄り添うこと、みんなが誰一人取り残されずに笑顔で暮らせるまちをつくること。 子どもたちが授業で見せてくれたあの真剣な眼差しを裏切らないよう、私はこれからも「現場」でしっかりと汗を流し、大人の責任として、この素晴らしい丹波篠山の未来を繋いでまいります。

素敵なご縁をくださった学校の皆さま、先生、そして6年生のみんなに、心から感謝申し上げます!

「議場」と「現場」を往復する理由。福祉と教育の最前線から見えてくるもの

皆さま、こんにちは。桐村 裕一です。

6月に入り、気がつけば夏が近づいてまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

最近の私はと言いますと、大変ありがたいことに、児童発達支援の運営という枠を超えて、

地域の、そして全国の教育・保育の現場から数多くのお声がけをいただき、

文字通り「現場を駆け回る日々」を過ごしております。

「議員なのに、なぜそんなに外回りを?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、私にとって「現場に立ち続けること」は、お預かりしている議員のバッジの重みに応えるための、絶対に譲れないこだわりです。

ここ最近の、本当に濃密だった活動を少しだけ写真と共に振り返らせてください。

全国から、そして地域の最前線からいただいたご縁

ここ5月の終わりからだけでも、本当にありがたいご縁が立て続けにありました。

1. 【大分県】児童発達支援センター 5周年記念事業の講師

  始まりは、大分県へ。児童発達支援センターの「5周年記念事業」という大変節目となる大切なイベントにお招きいただき、講師を務めさせていただきました。他県であっても、子どもたちの未来を想う現場の熱意は同じ。専門家としてお役に立てたことを光栄に思います。

2. 地域での「親子活動」・某こども園での講師

地元に戻ってからは、親子の笑顔が溢れる「親子活動」や

こども園での講師を務めました。

発達の特性に合わせた支援の重要性を、草の根で地域に広げる大切さを改めて実感しています。

3. 今年もスタート!体育の臨時教員

今年度もご縁をいただき、先日から学校での体育の授業がスタートしました!

子どもたちと一緒に思いっきり身体を動かし、汗を流す時間は、私にとっても最高のエネルギー源です。

4. 現場を支える先生方への「一日職員研修」講師

 先日は、丸一日をかけて職員研修の講師を務めさせていただきました。

 現場の先生方が抱える悩みや、日々の奮闘を直接お聞きできる貴重な機会となりました。

5. 夜間は「発達支援部会」の講師へ

そして夜はそのまま、発達支援部会の講師として勉強会へ。

夜遅くまで、地域の福祉向上のために熱心に学ぶ地域の皆さんの姿に、私の方が刺激をいただきました。

6. 深夜におよぶ、精神疾患を抱える大人の方への伴走支援

他の日の夜間には精神疾患を抱える大人の方の生活支援へ。

福祉の光が必要なのは、子どもたちだけではありません。

孤立しがちな夜の時間帯だからこそ、寄り添い、具体的なサポートを行う重要性を、日々肌で感じています。

◆ 私が「現場」を離れない、本当の理由

これほど多くの現場に関わらせていただくのは、決して「マルチに活躍したいから」ではありません。

「議場に座っているだけでは、絶対に聞こえてこない“生の声”があるから」です。

教育現場の人手不足の深刻さ、子どもたちの体力の変化、発達支援を必要とするご家庭のリアルな悩み……。これらは、役所の書類やデータを見ているだけでは、本当の意味で理解することはできません。他県での取り組みを見ることで、私たちの街の強みや課題も客観的に見えてきます。

私が現場で子どもたちと一緒に汗を流し、先生方や保護者の皆さまと直接言葉を交わすからこそ、「本当に今、地域が必要としている生きた政策」を議会で堂々と提言できるのだと確信しています。

◆ おわりに

温かく迎えてくれた子どもたち、そして「桐村先生に」とお声がけくださった関係者の皆さまに、心から感謝申し上げます。

私はこれからも、現場の泥臭い課題から目を背けず、皆さまの声を市政へと届ける「パイプ役」であり続けます。

明日からもまた、現場へ、そして議会へ、全力で走ってまいります!

愛着が育む子どもの未来:認め合うことで生まれる温かな絆と希望の物語

質問がきていたので、愛着障がいという部分も含めて話をします。

心をつなぐ 愛着 という絆

日々の子育ての中で、子どもへの向き合い方やしつけに迷い、立ち止まってしまうことは、決して特別なことではありません。

法務総合研究所が行った一般市民を対象とした実態調査によれば、多くの親たちが親子関係の在り方に葛藤し、自らの関わりが子どもの心にどのような影を落としているのか、人知れず不安を抱えている現状が見えてきます。

子育ての支援者の一人として、そして一人の人間としてまずお伝えしたいのは、

悩むことはそれだけ子どもを大切に想っている証であるということです。

親子を深く結びつける基盤は愛着(アタッチメント)と呼ばれます。

これは単なる愛情表現を超えて、子どもが「自分は守られている」「この世界は信頼できる場所だ」と感じるための心の安全基地となります。

客観的な事実と、心理学的な知見を織り交ぜながら、子どもたちの未来を照らす温かな絆の育て方について考えていけたらと思います。

愛着形成がなぜ子どもの一生を支えるのか

子どもにとっての愛着形成は、人生という長い航海における羅針盤を作る作業に似ています。心理学者の西澤(1999)やクルーズら(1994)は、親から受けた心理的な傷つきが、身体的な傷以上に長期にわたって否定的な影響を与えることを指摘しています。

なぜ、愛着がこれほどまでに重要なのでしょうか。

それは、幼少期の親との関わりを通じて、子どもの心の中に内部作業モデルと呼ばれる「自分や他者に対する基本的な信頼感のひな形」が形作られるからです。

親が子どもの存在を無条件に受け入れ、適切な応答を繰り返すことで、

このひな形は「自分には価値がある」「困ったときは誰かが助けてくれる」という肯定的なものになります。

これが将来の人間関係の設計図となり、大人になってからの対人関係や困難に立ち向かう力の源泉となるのです。

逆に、この時期に心の安全基地を奪われてしまうと、人間関係の設計図が歪み、生涯にわたる生きづらさを抱えるリスクが生じてしまいます。

愛着の課題と向き合う

実態調査のデータは、私たちの想像以上に「目に見えない暴力」が蔓延している現実を突きつけています。被害実態の中で最も多く挙げられたのは、夫婦間の諍いなどを見せつける間接的暴力(13.7%)であり、次いで言葉による刃である心理的暴力(10.4%)が続いています。

ここで、テクニカルライターとしての視点から非常に重要な統計データをお示しします。調査における重回帰分析の結果(表7)によれば、現在の生きづらさに最も強い相関を示しているのは、身体的暴力でも間接的暴力でもありません。

心理的暴力の影響(標準化係数0.35)が、身体的暴力(0.12)や間接的暴力(0.10)を大きく上回っているという事実です。

言葉の刃が与える長期的な影響は、身体への打撃よりもはるかに深く心に刻まれます。 存在を否定する言葉や無視、きょうだい間の差別といった心理的暴力は、子どもの自己肯定感を根底から破壊します。また、家族間の激しい諍いを目撃し続ける経験も、子どもを絶え間ない緊張状態に置き、精神的な不安を増幅させます。これらの過去の経験が、現在の「原因不明の生きづらさ」として、大人になった彼らの肩に重くのしかかっている現状を私たちは直視しなければなりません。

子どもを 認める ことの大切さ~しつけを超えた絆~

日本の社会では、しつけという名目での暴力がいまだに根深く容認されています。

実に82.9%もの人が「理由があれば叩いても構わない」としつけにおける身体的暴力を肯定しています。しかし、ここには親の認識と子どもの受け止めの間に、深刻なギャップが存在します。

特筆すべきは、実際に虐待経験を持つ人ほど、しつけにおける暴力を「絶対にダメ」と強く否定しているという事実です。

痛みを誰よりも知る当事者こそが、暴力に解決の力などないことを訴えているのです。

調査の自由記載欄には、痛切な声が並んでいます。

「時間をかけずに手短に子をコントロールしようとする者が暴力に出るのであって、話し合いで解決できるはず」

「親側の認識と子ども側の認識は必ずしも一致せず、親側はしつけの名のもとに傷つけることを意図していない場合でも、子どもの側では十分に傷ついていることがままある」

こういった方々の支援者としてお伝えしたい残酷な真実があります。

子どもは暴力にさらされたとき、自分を守るために

「自分が悪いから、こうされて当然なんだ」と思い込もうとします。

これを自罰的傾向と呼びますが、子どもは親を嫌いになるよりも、自分を責めることでしか耐えがたい状況を理解できないのです。力で支配するのではなく、まずはその子の存在そのものを認めること。

それこそが、しつけという名の支配から解放され、真の絆を紡ぐための唯一の道です。

周りに助けを求める勇気

もし今、あなたが苦しみの中にいるのなら、どうか一人で抱え込まないでください。

被害の種類によって私たちが求めるべきサポート先が異なることを示しています。

身体的暴力に対しては「家族」の助けを求める声が多い一方、心理的暴力には「身近な人」、そしてネグレクトや性的暴力といったより深刻なケースでは「専門の相談窓口」に具体的な援助を求める傾向が際立っています。

「幼すぎて自分からは相談できなかったから、周囲に気づいてほしかった」

「相談できる場所が欲しかった」という切実なニーズが溢れています。助けを求めることは、親としての責任放棄ではありません。むしろ、負の連鎖を断ち切り、子どもと自分自身の未来を守るための、最も勇敢で愛情深い決断です。私たちは、被害の種類に応じた適切な支援の手を差し伸べる準備をしておく必要があります。

今日からできる 心のハグ

 最後まで読んでくださったあなたに、今日からできる提案があります。

それは、子どもが何か「いけないこと」をしたとき、叱る前に一呼吸おいて、その子の存在そのものを認める言葉をかけることです。これが、私が提案する「心のハグ」です。

そして、この問題は決して一家庭の責任だけではありません。

私たち一般の大人が家庭内の不穏な空気を看過せず、地域社会の一員として積極的に一役買うこと、つまり社会的介入こそが、孤立した子育てを防ぐ鍵となります。

子どもを認め、親である自分を認め、そして社会全体で親子を支える温かな眼差しを持つこと。

その積み重ねが、子どもたちの内部作業モデルを書き換え、未来への希望に満ちた物語へと変えていくのです。

この心のハグは、支援者・先生・保育士・その他子どもに係わる人すべてに必要なものです。

今日という日が、あなたと大切なお子様にとって、新しい絆の始まりとなることを心から願っています。

「しつけ」という名の暴力、その境界線。統計が語る「5人に1人」の消えない痛み

数字に隠された「1/5」の真実

日本の一般市民、約3,000人を対象とした大規模な全国調査。その統計の森を歩くと、私たちはある「重い事実」に突き当たります。「18歳までに、約21.7%が何らかの虐待被害を経験している」という現実です。この数字には、直接的な暴力だけでなく、家族間の暴力を目撃する「間接的暴力」も含まれています。

「5人に1人」という割合。それは、決してニュースの向こう側の出来事ではありません。

 電車の隣の席に座る人、職場の同僚、あるいはあなた自身かもしれない。私たちは、5人に1人が幼少期に家庭という密室で心に傷を負わされている社会に生きています。

 なぜ、これほど多くの痛みが「しつけ」という言葉に隠されてきたのでしょうか?

 専門家の視点から、私たちの「常識」がいかに危ういバランスの上に立っているのかを、数字と声から紐解いていきましょう。

8割が「叩くしつけ」を容認しているという衝撃

今回の調査で浮き彫りになったのは、現代日本の驚くべき「意識の矛盾」です。

平成12年に成立した「児童虐待防止法」の認知度は83.1%と極めて高い水準にあります。

しかし、その一方で「理由があれば叩いても構わない」と答えた人は82.9%にものぼりました。

法律を知りながら、なぜ身体的な苦痛を伴うしつけを肯定してしまうのか。

その背景には、加害者側の「悪意」ではなく、むしろ歪んだ「正義」や「信念」が潜んでいます。自由記載欄に寄せられたのは、次のような伝統的価値観の声でした。

「叩かれずに育った人はわがままになる」

「社会化のためには、暴力を含め、ある程度高圧的な態度が必要」

「悪いことをしたら痛い思いをさせるのが教育(メリハリ)である」

彼らは暴力を「必要悪」あるいは「教育の技術」として正当化しています。

しかし、この「教育という名の信念」こそが、子供の主観的な苦痛を無視し、虐待をエスカレートさせる入り口となっているのです。

「見えない暴力」心理的虐待が一生を左右する

身体的な傷痕よりも、さらに深く、人生の根幹を揺さぶるもの。

統計の重回帰分析(標準化係数)という客観的な手法によって証明されたのは、身体的・性的暴力以上に、「心理的暴力」こそが現在の生き方に最も強い負の影響を与えているという事実です。

「産まなければよかった」「お前はダメな子だ」といった言葉の刃。

それは子どもの自尊心を根底から破壊し、その存在そのものを否定します。

目に見える傷は癒えても、魂に刻まれた拒絶の記憶は、大人になってからの人間関係や自己信頼を蝕み続けます。

聞き取り調査に応じた当事者たちは、出口のない絶望を次のように語っています。

「生きていても仕方がない」 「自分が否定されることは許せない」

言葉による暴力は、子どもにとって世界の崩壊に等しいのです。

目撃することも「暴力」であるという認識

法律では直接規定されていませんが、今回の調査で注目すべきは「間接的暴力(家族間の暴力の目撃)」の多さです。その発生率は13.7%に達し、身体的虐待(5.3%)を大きく上回っています。

自分が直接叩かれなくても、「父が母を殴る声」を隣の部屋で聞くことは、子どもにとって凄絶な恐怖です。インタビューでは、身体に深く刻まれた生々しい反応が報告されています。

「母が死んでしまうのではないかという恐怖で、それしか覚えていない」

「怒鳴った声を聞くと、今でも脈が速くなり、びくついてしまう」

間接的暴力と言えども、子どもに与えるダメージは決して「間接的」ではありません。

職場で上司が声を荒らげただけで過覚醒(過度の緊張状態)に陥るなど、その後の社会適応に深刻な後遺症をもたらすのです。

性別によって異なる「虐待の風景」

統計データを詳細に分析すると、虐待の現れ方には明確な性差が存在することがわかります。

男性の場合、虐待は「開始が遅く、期間が短い」という傾向が見られます。

一方、女性は「幼少期から始まり、成人近くまで長期化・複合化しやすい」という過酷な実態があります。

この長期化は、絶望の深さに直結します。深刻な被害を訴え、聞き取り調査に応じた女性たちの間では、その36.4%(33名中12名)が「死にたいと考えた」経験を語りました。

女性の方がより複雑で深いトラウマを抱えやすく、自己肯定感を再構築するプロセスにおいても、より多くの困難に直面しているのです。

「虐待の連鎖」を断ち切ろうとする静かな闘い

「虐待を受けた人は加害者になりやすい」という通説。しかし調査で見えてきたのは、その重圧と闘いながら、必死に子どもを守ろうとする親たちの不器用で切実な姿でした。

ある当事者は、我が子の何気ない振る舞いのなかに、かつて自分が親から受けた「暴力の影」を見つけた瞬間の衝撃を語っています。

「自分が叩かれた時と同じ仕草を我が子がしたことで、連鎖に気づき、努力し始めた」

彼らは決して「完璧な親」ではないかもしれません。自分の感情に自信が持てず、あえて育児書にあるような「作られた(機械的な)接し方」でしか子どもに接することができない苦悩を抱えている人もいます。しかし、その「教科書通りの接し方」こそが、自分の内なる衝動を抑え込み、子どもを守ろうとする精一杯の防衛線なのです。その静かな闘いを、私たちは否定できるでしょうか。

未来へつなぐ「証人」という役割

過酷な過去を持ちながら、今日を生き抜くことができた人々。

彼らをつなぎ止めた共通の要因は、資料で「事情をわきまえた証人(事情をわきまえた理解者)」と呼ばれる第三者の存在でした。

それは、必ずしも専門家である必要はありません。

祖父母や学校の先生、近所の大人。

その子が置かれている過酷な状況を否定せず、ただ「あなたは悪くない。その状況は異常だ」と認め、味方でい続けること。その存在自体が、子どもにとっての「生存の鍵」となります。

もし、あなたの周囲に苦しんでいる子がいたら。あるいは、かつての自分のように傷ついた誰かがいたら。特別な介入ができなくても、その子の苦しみの証人になることには、計り知れない価値があります。

あなたは今日、周りの人々の「声なき声」にどう耳を傾けますか?

そして、あなた自身の過去は、今どのような光の中にありますか?

この記事が、誰かの痛みを「自分事」として捉え直すきっかけになれば幸いです。

虐待の連鎖と愛着の歪み

〜「加害者」の中にある未解決のトラウマと、私たちが引くべき境界線〜

児童虐待や子どもへの性加害のニュースを目にするたび、多くの人は加害者を「許されざる悪人」として強い非難の声を上げます。子どもを傷つける行為は決して許されるものではなく、その非難は当然のものです。

しかし、現場で支援に関わる中で、事態はそう単純に切り捨てられない現実に直面することがあります。

今回は、私が支援の現場で直面した「虐待の負の連鎖」と「愛着の課題」について考えてみたいと思います。

■ 立ち直ろうとした大人が、なぜ子どもを傷つけるのか

かつて親から凄惨な虐待を受け、誰にも認められずに育った大人がいました。社会の中でつまずきながらも、なんとか立ち直ろうと懸命にもがいていました。

そんな中、同じように親から虐待を受けている子どもと出会います。

その子を守りたい、かつての自分のようにさせたくないという気持ちは、間違いなく本物でした。

しかし、彼はその子どもに対して、あろうことか不適切な性加害に及んでしまいます。

さらに背景には、親密な関係にある配偶者に対してもDVを繰り返し、関係が破綻していたことも分かりました。

守りたいはずの子どもをなぜ傷つけてしまったのか。なぜ愛すべきパートナーを暴力で支配しようとしたのか。

この矛盾に満ちた悲しい行動の背景には、幼少期の「愛着の歪み」と「虐待の世代間連鎖」が深く関わっています。

■ 愛着の崩壊と「支配」の構造

人間は幼少期に、保護者に守られ、泣き声や不安といった「負の感情」を適切に受け止めてもらうことで、「自分は愛される価値がある」「他者は信頼できる」という心の基盤、内的ワーキング・モデルを形成します。

しかし、親から否定され、暴力を受けて育つと、この愛着システムが崩壊します。

親が「安心の源」ではなく「恐怖の対象」となることで、子どもは無秩序で混乱した愛着スタイルを形成してしまうのです。

そして、自分の感情が受け止められなかった経験は、脳のレベルで感情制御の発達を阻害し、本能的な「闘争・逃走反応」モロー反射を引き起こしやすくさせます。

しかもこの闘争逃避反応と呼ばれる原始反射は、脳幹でコントロールされるため、大脳新皮質の思考や大脳辺縁系の感情ではコントロールができないという欠点があります。

この部分を未だに思考のコントロールや感情の制御で対応しようとする医療業界や社会全体の流れが、トラウマを助長させていきます。

このトラウマが未処理のまま大人になると、他者との適切な心理的距離(境界線)が保てなくなります。不安やストレスを自分の中で処理できず、自分の思い通りにならない場面で、自分よりも力の弱い子どもや配偶者に対して「暴力」や「性」という手段で支配・コントロールしようとしてしまうのです。

性的加害は、単なる性の問題ではありません。それは、逆らいにくい関係性や相手の弱さを利用した「支配」の構造そのものなのです。

■ 支援者としての葛藤と「引くべき境界線」

加害に及んでしまった彼が、法の裁きを受けるプロセスの中で、私の前で「自分は何をやっているんだろう」と大泣きしたことがありました。他の人には淡々としているのに、自分の立ち直りを知る「理解者」に本当の姿を見せました。

かつての彼の痛みと、立ち直ろうとした努力を知っているからこそ、私の中にも深い葛藤がありました。世間が言うような「根っからの悪人」ではない。彼もまた、連鎖の犠牲者なのです。

しかし、ここで同情に流されるわけにはいきません。

私は「あなたの過去は理解している。けれど、子どもを支援する立場として、あなたが子どもを傷つけたことには絶対に許せない」と明確に線を引きました。

すると彼は、あっさりと諦めの表情を見せました。「どうせ自分は見捨てられる」「誰も助けてくれない」という、彼が幼少期から学んでしまった絶望がそこにあったのかもしれません。

虐待サバイバー支援において最も重要なのは、「加害者の中にある傷ついた子どもを理解すること」と、「現在の加害行為を免責すること」を完全に切り離すことです。

彼らに対しては、同情で包み込むのではなく、「自分のしたことの責任」を直視させ、専門的なトラウマ治療や更生プログラムに委ねることが、本当の意味での支援になります。

■ 負の連鎖を断ち切るために社会ができること

この深い闇を抱えた問題を、個人の責任論だけで終わらせてはいけません。私たちが社会として取り組むべき課題は明確です。

  1. 密室化を防ぐ仕組みの構築:子どもと大人が関わるあらゆる場で、逆らいにくい権力差を利用した被害が起きない仕組みが必要です。
  2. 子どもへの権利教育:子ども自身が「嫌と言っていい」「誰かに相談していい」と学べる生命の安全教育が不可欠です。
  3. 加害者への治療的介入:虐待を繰り返す親や加害者に対して、単なる罰や指導ではなく、彼ら自身の愛着外傷にアプローチする専門的かつ長期的なケアシステムが求められています。

虐待の連鎖は宿命ではありません。しかし、それを断ち切るためには、被害を受けた子どもたちを徹底的に守り抜くことと同時に、社会全体で彼らの背景にある「愛着の課題」に向き合っていく必要があります。